Blog

ブログ更新情報


2025

引退ブログ

こんにちは。4年AT#76のれあです。


昨日のブログ担当のしのとは、中一から同じ部活に所属していて、一緒にいろんなことを経験しました。友達なんて超えて家族の域に達している人です。今更しのについて何を書けばいいのかわかりませんが、とにかくおばあちゃんになっても仲良くしていたいと思います。私が困ってるといつも「も〜しょうがないな〜」って感じでテキパキ助けてくれます。本当にありがとう。ほぼ母親かな?笑


まず初めに、保護者の皆さま、OGの皆さま、そして学習院女子ラクロス部に関わってくださっているすべての皆さまへ。
 日頃より温かいご支援とご声援をいただいていること、心より感謝申し上げます。


さて、とうとう私にも引退ブログを書く日がやってきてしまいました。1年生の頃は、「引退なんて一生来ないんじゃないか」と思うほど、先の見えない日々を過ごしていましたが、気づけばその時が目の前に来ていました。正直、今でも引退した実感はあまり湧いていません。

最後の試合だった日体戦から約2週間が経ちました。部活をしていた頃の2週間は、本当にあっという間だったのに、今はその時間がとても長く感じています。

何から書けばいいのか少し迷いもありますが、このブログでは私の大学生活4年間を、正直に、赤裸々に振り返ってみたいと思います。思いのまま綴るので、「れあってこんなこと考えてたんだ」と驚かれるかもしれません。ちなみに、投稿についている曲は、真冬の一時間ランの時に聞いていた曲です。時間がある時に読んでいただけたら嬉しいです。このブログ、めちゃくちゃ長いです。


――――――――――――――


1年生。入学当初、私は部活に入る気はそんなになかった。中高6年間の陸上部生活で「もう部活はこりごり」と思っていた。

でも、いざ大学生活が始まってみると、自由な毎日の中で、自分には「やりたいこと」が何もないと気づいた。唯一興味があったのは留学くらい。何となく流れていく大学生活に不安を覚え、「このままでいいのか?」という気持ちが芽生えた。

いろんな新歓に足を運んで、マネージャーをやろうかと考えたこともあったけれど、自分のことすらちゃんとできない自分が他人を支えられるわけがないと感じて、すぐにやめた。色んな団体を回ったけれど、これといったものに出会えなかった。

そんな中で出会ったのがラクロス部。体験会に参加してみると、チームの雰囲気がすごく良くて、なぜか心に残った。特別な才能を感じたわけでも、強く惹かれたわけでもなかったけれど、新歓情報はずっと追いかけていた。

そしてある日、入部の締切が「今日」だと知った。

「せっかくの大学生活を、やりたいことも見つからないまま過ごすのはもったいない」と思った。ラクロス部には留学ができる制度があって、活動を続けながら留学できることも大きな魅力だった。将来の選択肢を広げながら、新しい挑戦ができる環境。心のどこかで、「何かに本気で打ち込んでみたい」「仲間と最高の青春を過ごしてみたい」という思いが確かにあった。

中高の陸上では、そこまで情熱を注げなかった。だからこそ、もしもう一度チャンスがあるなら、今度こそ何かを掴みたいと思った。

でもその一方で、「どうせ自分にはできない」と最初から諦めてしまうのが当時の私だった。そんな自分を変えたくて、「ラクロスを始めたら何かが変わるかもしれない」と思った。

そして夜の23時、締切ギリギリの時間に、一つ上の先輩・まやさんに思い切ってLINEで入部希望の連絡を送った。非常識でした本当にすみません。


いざ入部してみると、ラクロス部は「日本一」を目指す、本気の部活だった。正直、「日本一を取りたい」という強い気持ちで入ったわけではなかったし、当時の私には「日本一」とは何なのかもまだピンときていなかった。

それでも、毎朝早起きして朝練に出て、授業を受け、課題をこなす。そんな慣れない生活を送るだけで、毎日がいっぱいいっぱいだった。正直、ラクロスが好きとか楽しいとか感じる余裕はあまりなかった。でも、「やると決めたからには続けたい」という思いだけは強くて、気持ちに余裕がなくても、毎日必死に部活に通い続けた。

だからこそ、サマーでは試合に出場させてもらえたし、ウィンターでも予選に出ることができた。ただ、練習に参加することで精一杯だった分、「もっと上手くなりたい」とか「試合で活躍したい」といった感情は、まだ自分の中に育っていなかったと思う。

そんな中迎えた2022年の一部残留をかけた大事な入れ替え戦。結果は敗北。試合後、泣き崩れる先輩の姿を見て、私は少しみんなと違う衝撃を受けたと思う。「こんなにも本気でこの部活に向き合っていたんだ」と。その姿を見て、心からすごいと思った。そして同時に、そんなふうに何かに熱中している姿が、少し羨ましくもあった。

もちろん今振り返ると、その感情は少し的外れで、恥ずかしい。でも、あのとき確かにそう思っていた。

でも、自分があの舞台に立って、チームを背負って戦う未来は想像できなかった。気づけばまた、何も始まっていないうちから「自分には無理だ」と決めつけて、諦める癖が出ていた。

練習には参加していたけれど、どこか気持ちは受け身のまま。部活を「こなすこと」に追われる日々だった。

そもそも私は、運動神経がすば抜けて良いわけではなかった。だから、仲間との実力差は、時間が経つにつれて現れていった。


そして2年生。練習試合での出場時間は、少しずつ減っていった。最終的には、あすなろカップでの出場時間はほぼセロ。自分だけベンチでタイム得点をずっと持っていた。しかも、決勝には頼んでもいないのに親が観に来ていて、恥ずかしさと情けなさでいっぱいだった。正直、その日は早く帰りたかった。

そのとき、初めて「自分と周囲との熱意の差」に真正面から向き合わざるを得なくなった。これまでは「頑張っているつもり」でいたけれど、今思えばそれは本当に「つもり」だった。自分では努力していたつもりでも、周りはその何倍も本気で取り組んでいた。自分のキャパを超える覚悟もないまま、“なんとなく頑張っている気になっていた”だけだったのだ。

さすがの私でも、この熱量のままでは通用しないと痛感した。けれど、「辞める」という選択肢はなかった。自分には一度始めたことは続けたいという意地のような性格があったから。ならばもう、覚悟を決めて本気で取り組むしかないと腹をくくった。


自分の強みは「足の速さ」だと分かっていた。だったら、そのスピードを一番活かせるプレーを突き詰めよう。そう考えて、MDから、1on1のOFを磨くために思い切ってATに転向した。

チームには「一部昇格」という明確な目標があり、背中でその意志を示し続けてくださる4年生がいた。周りでは、同期が覚醒し、後輩たちもどんどん成長していく。その中で、自分もチームに居る存在意義を証明したくて、とにかく自分の強みを磨くことにした。

もちろん、すべてがうまくいったわけではない。むしろ、失敗ばかりだった。それでも、100回中の1回でも成功すれば嬉しかったし、それだけで楽しかった。動画を繰り返し見て、間合いの取り方を研究し、成功したプレーの映像は何度も何度もニヤニヤしながら再生した。

1年生の頃は数えるほどしか行かなかった壁打ちにも、気づけば自ら足を運ぶようになっていた。以前はあまり見ていなかったプレー動画も、自発的にチェックするようになった。そして、ようやくラクロスが「楽しい」と思えるようになっていった。

試合での出場時間はまだ少なかったけれど、「少しだけ自分が上達している」と実感できる瞬間が、ようやく訪れ始めていた。


そんな時、1年生の頃から準備していた留学先の大学から合格通知が届いた。

地道に準備していたこともあり、通知を見たときは素直に嬉しかった。けれど、それと同時に「ラクロスをどうするか」という大きな悩みが生まれた。準備を始めた当初は、まだラクロスにそこまで熱中していなかったからこそ、まさか行ける段階になってこんなに悩むとは思っていなかった。

本音を言えば、「やっと楽しくなってきたラクロスを、今このタイミングで手放すのか?」という思いは強かった。けれど、かつて留学後に復帰し、Bチームの幹部として活躍していた先輩の存在が、「戻ってきても道はある」と教えてくれた。だからこそ、自分も「行ってよかった」と思えるように、ただ行くだけではなく、しっかり取り組もうと決意した。同期にも「必ずプレーヤーとして戻ってきます」と宣言した。あの時あたたかく送り出してくれたこと、本当にありがとう。

こうして、2年生の夏、アメリカ・アラバマ州での1年間の留学生活が始まった。


実際に現地での生活が始まると、まったく異なる世界が目の前に広がっていた。自分が長年憧れていた留学生活が始まり、学べることも多く、今振り返っても留学という選択は間違っていなかったと断言できる。ただ、ラクロスのことが頭から離れた日は一日もなかった。

当初は、留学中も現地でラクロスを続けようと思っていた。けれど、実際に行ってみると留学先はど田舎で、ラクロスのラの字も知らないレベルの人ばかりだった。チームもなければ、用具を売っている店すらないような環境だった。結局、ラクロスをすることは叶わず、その分だけ不安が積もっていった。

「戻ったとき、自分はちゃんとやっていけるのか?」「体力は? 技術は? 上級生として通用するのか?」という不安が、日に日に大きくなっていった。

特に不安だったのは技術面だった。そしてチームスポーツにおいて「一緒に時間を過ごすこと」で生まれる絆や信頼があるなかで、自分だけ途中からその輪に入ることに戸惑いもあったし、焦りも感じていた。

だからこそ、できることは全部やろうと決めた。毎朝6時半に起きて(遅)45分間のバイクを漕ぐクラスに通い、その後は宮代さんにいただいたメニューで筋トレをした。派手なトレーニングではなかったけれど、「何かしていないと落ち着かない」くらいには、焦っていた。

そして、一部昇格の知らせを聞いたときは、心の底から嬉しかった。自分たちのためにその舞台を残してくださった先輩方への感謝がこみ上げたし、「帰ったら必ず力になれるように」と改めて心に誓った。


ただ、帰国が近づくにつれて、不安がゼロになったわけではない。「また試合に出られなかったらどうしよう」「やっぱり技術が足りないのかな」と、ふとした瞬間にネガティブな気持ちも顔を出した。

そんなとき、24チームの主将であるるいさんに「プレーヤーとして戻るよね?」と聞かれ、「もちろんです!」と即答したけれど、正直その胸の内は不安でいっぱいだった。でも、あの言葉のおかげで、自分の意思を改めて確認できたと思う。

一度だけ、あいに「やっぱりプレーヤー無理かもしれない」と弱音を吐いたことがある。けれどそのとき、「一緒にプレーヤーとして4年間やりきろう」と言ってくれて(もっと長文で心に刺さる文章をくれました)空港で大号泣してしまった。あの時の言葉は、今でも自分の心の支えになっている。本当にありがとう。


そして、3年生の夏に帰国した瞬間からラクロスのことだけを考える日々が始まった。毎日壁打ちをして、同期を誘ってグラウンドで練習を重ねた。(久しぶりすぎて自主練なのにマウスピースもアイガードも装着していて笑われたのは、今では良い思い出。)できる限りの準備を整えて、復帰に臨んだ。

正直、復帰することは今までの人生の中で一番怖かった。「本当に自分にできるのか」「期待外れだと思われたらどうしよう」と、不安で押しつぶされそうだった。でも、怖いからこそ、逃げずに挑戦したいと思った。

復帰前には、残りのシーズンの目標として「ベンチ入り」を掲げた。そしてそのために、自分に必要な姿勢として「泥臭く」「素直にすべてを受け入れる」と定めた。周囲は私が下手であることを十分に理解している。だからこそ、プライドを捨てて思い切って挑戦しなければ通用しないと分かっていた。そうやって開き直ることで、より多くのことに挑戦できるようになった。(復帰して一週間は張り切りすぎてすぐコロナにかかりました。)

また、ミスを引きずらないよう、毎日一つ「意識するポイント」を設定し、そこに集中してプレーするようにした。そうすることで、2年生の頃から課題にしていた1on1の技術も少しずつ磨かれていった。

その結果、本当にありがたいことに、実力は全くもって足りていなかったけれど、リーグ戦でのベンチ入りという目標を叶えさせてもらった。


そして4年生。いよいよ最後の学年を迎えた。

私は「絶対にATのスタメンになる」と強く決意した。同時に「強い1on1でOFの起点になる」という目標、そして口には出さなかったけれど「関東トップ5に入るワンワナーになる」という目標も掲げていた。
普通に考えれば、1年のブランクを経てリーグ戦に出るなんて無謀だったし、実際、これまでの人生で一番の逆境だった。それでも、1年生の頃のように練習をこなすだけで終わる時間にはしたくなかった。「最初から諦める自分」にだけは、もう二度と負けたくなかった。だからこそ、あえて身の丈に合わない目標を掲げ、自分をそこに追い込んだ。


最上級生としての1年は、決して平坦なものではなかった。

留学から帰国した当初、私はまだ3年生だった。だからこそ、「1年のブランクくらいすぐに取り戻せる」と前向きに考えていた。だが、4年生という立場になると、その重圧は想像以上にのしかかってきた。周囲の視線を過剰に意識し、ミスを恐れるようになり、思い切ったプレーができなくなっていった。体が縮こまり、その結果さらにミスを重ね、完全に負のスパイラルに陥った。

私が留学していた1年、仲間たちは日々地道に努力を重ねてきた。朝練、筋トレ、自主練、武者試合。想像もつかないほどの過酷な場面を、彼女たちはいくつも乗り越えてきたのだろう。それに対し、私は自らの意思でその時間を共にする選択をしなかった。その事実の重さを、現実として突きつけられた。

しかし私は、「留学していたから仕方ないよね」と言い訳にすることだけは、絶対にしたくなかった。そう思われることも、自分がそう思うことも、何よりダサいと感じていた。だからこそ、1年分の差を埋めるだけでなく、それ以上の努力が必要だと理解していた。

ありがたいことに、同期は私を特別扱いすることなく、常に真剣に接してくれた。厳しい言葉もまっすぐな態度も、時に痛かったが、何度も私を救ってくれた。


チーム分けが始まると、私は当然のようにBチームだった。同期の中で唯一のBチーム残留という現実に、分かってはいたものの、大きなショックを受けた。壁打ちをしながら泣いた日もあったし、ご飯を食べながら涙が出てきたこともある。きっと、家族にも心配をかけていたと思う。

それでも、そんな弱い自分が嫌だった。仲間たちは、私以上に多くの挫折や苦しさを経験しながらも、それを乗り越えてきた。だからこそ、自分だけが立ち止まっているわけにはいかなかった。

部活外でAチームの同期と同じ場所にいても、私は「自分だけ違う」と勝手に距離を感じていた。誰もそんなつもりで接していないのに、自分で壁を作っていた気もする。


Bチームでの練習でも、自分の力不足を痛感する毎日だった。4年生という立場上、自然と練習を引っ張る場面が増えたが、知識も技術も1年前で止まっている自分には、教えられることが限られていた。その中で、同期がチーム全体を導く姿は本当にかっこよく、心から尊敬していた。

たまに練習試合でAチームに混ざる機会があっても、緊張からミスを連発し、パスキャミスでターンオーバーを招いた。OF全体で準備していた流れを、自分のミスで壊してしまうたびに、情けなさが募った。「なぜ私はリーグ戦に出たいのだろう」とすら考えるようになっていた。

そんな中、4年生それぞれがリーグ戦への思いを語るミーティングがあった。私は「最後の一分一秒まで、試合の笛が鳴るその瞬間まで、絶対に諦めません」と誓った。それは、最初から諦めてしまう自分の弱さに打ち勝ちたかったからだ。逆境を乗り越えられる自分を、最後に証明したかったのだ。

宣言はしたものの、焦りや不甲斐なさは募るばかりだった。理想と現実のギャップに押し潰されそうになり、部活後に感情が抑えきれず、トレル前でしのとあいの前で号泣した。そのとき、しのが「引退まであと半年なんだから、最後の最後、一緒に頑張ろう」「一緒にフィールドに立ちたい」と言ってくれた。その言葉が、どれほど救いになったことか。

イオンでみんなで号泣ミーツした時でも、さやが泣きながら「一緒に試合に出たいと」伝えてくれたこと、りずが「ミスしてもグラボすれば良いよ」って持ち前のポジティブを発揮してくれたこと、他にもたくさんの言葉に支えられた。れいはどんな時でも最後まで一緒に壁を乗り越えてくれたし、いつもそんなに多くを語らないゆりあからの励ましのラインは泣けたし、らいはご飯一緒に食べよって言ってさりげなく支えてくれて。本当に、私は同期に恵まれた。


そんなあたたかい同期に、恩返しがしたいと思った。もう一度、みんなと一緒にフィールドに立ちたい。そう強く思えるようになってから、ようやく「4年生だからこそ挑戦できる」気持ちが湧いてきた。失敗を恐れず、挑戦し続ける自分になりたかった。

壁打ちも、これまでただ“こなしていた”ことに気づき、やり方を見直した。なぜか誰も誘わず真冬の中1人で他大の武者に参加した。とにかく必死だった。

少しずつ自分の武器も見えてきて、練習試合でも、以前は一発目に失敗して終わっていたのが、徐々に試合の中でやりたいプレーが出せるようになっていった。えみがダウンしている時に「本当に上手くなったね」って言ってくれたこと、あやなに「本当に留学してた?って思うくらい成長したね」と言ってもらえたこと、本当に嬉しかった。「マネだからこんなこと言っていいのかわからないけど」という枕詞がいつもついていたけど、そんなこと気にする必要なんて全然なかったんだよ。いつも精度とってくれて本当にありがとう。モチベだったよ。


そして気づけば春にはATの3枚目が定着していて、7月のリーグはスタメンとして出ることができた。

1戦目の試合日程が決まった朝、電車の中でそれを見た瞬間、急に全身が緊張で包まれた。今までは「試合に出たい」という一心でやってきたはずだったのに、ふと我に返る。4年生で初めてリーグ戦に出る自分が、本当に通用するのか? 他大学のスタメンには、熾烈な競争を勝ち抜いた猛者たちがいる。その中で、自分は“選ばれた3枚目”ではなく、“出るしかない3枚目”なのに。そんな不安が一気に押し寄せてきた。

まだ何も始まっていないのに、不安ばかりが膨らんでいった。
私は昔から、必要以上に物事を深く考えすぎる癖がある。「もっと自信を持って」と周囲から何度も言われてきた。頭ではわかっていても、体がついてこない。コーチからも「自信さえつけばね」と言われることが多かった。でも、リーグ開幕まであと1ヶ月という時期になっても、不安は拭えず、ガチガチのままだった。

リーグへの意気込みブログに「どうなるかは自分次第」と書いたけれど、あれは完全に自分自身に言い聞かせるための言葉だった。


そんなガチガチの状態で迎えた青学との1戦目は、まったく上手くいかなかった。
宮代さんの「フィールドに出ている人は責務を果たす」という言葉が、何度も胸に刺さった。
チームを代表して試合に出ているのに、緊張や不安で何もできなかった自分が情けなくてたまらなかった。青学戦は、周りに救われた試合だった。

勝利の瞬間、みんなが本気で喜んでいる中で、私は一人、ものすごく落ち込んでいた。
自分の不甲斐無さに耐えきれず、しんごさんとさやに謝罪のメッセージまで送ってしまった。
でもそれと同時に、気づいたことがある。チームが勝ったのに、自分は落ち込んでいた。私は、1人で戦っていたのだと。

「自分のできないこと」「自分がやらなきゃいけないこと」ばかりに必死で、周りがまったく見えていなかった。
本当は、補い合える仲間がすぐそばにいたのに、その存在に気づくのがあまりにも遅かった。
この試合をきっかけに、ようやくチームスポーツの本質に意識が向くようになった。
そこからは、「チームで戦っている」という感覚が自然と持てるようになり、ラクロスが心から楽しいと思えるようになった。


2戦目の早稲田戦までの時間は、本当に楽しかった。
「絶対に勝つ」とメラメラ燃えていたし、自分が磨き続けてきた1on1で先制点を決めることができた。
あの瞬間の感情は、今でもはっきり覚えている。
辛い冬を乗り越えてきて本当に良かったと思えたし、「この感覚を味わえるなら、何度でもラントレも練習も頑張れる」と思った。
結果は同点で勝利へ貢献することはできなかったけれど、早稲田戦は自分にとって自信につながったし、人生のハイライトになった。


そこからのリーグ戦では、自分が苦手とするタイプの相手が続いた。
 ATの3枚目から外されることもあり、あの時は本当に心の底から悔しかった。「まだまだ実力不足だ」と、改めて突きつけられたような気がした。でも、中央戦でせりが点を決めたときは、本当に嬉しかった。強心臓すぎて「ありがとう」しかなかった。以前の私だったら、きっとチームで戦っていなかったから、こんなふうに仲間の得点を喜べなかったと思う。でも今は、学習というチームで戦っているという実感があるからこそ、あの時の喜びがあった。


そしてFINAL4。
自分の得意分野でもう一度フィールドに戻ることができた。相手の日体は、想像以上に上手くて、正直ビデオで見るのと目の前で対峙するのとでは全然違った。でも、一度たりとも負けるイメージを持ったことはなかったし、最後の笛が鳴るまで「勝てる」と信じていた。


こんなにも長くなってしまったけれど、私のラクロス部での4年間をひとことで表すなら、「できない」と決めつけていた自分を、少しずつ変えていった日々だったと思う。

うまくいかないことの連続だった。何度も「自分なんか無理だ」と思ったし、逃げ出したくなったこともあった。最初の私は、「どうせ無理」と努力する前から諦めてばかりいた。でも、それじゃ何も変わらないと気づいて、ラクロスと真正面から向き合うことを決めた。「自分は逆境に立ち向かえる」と証明したい。そんな思いが、当初の自分を動かしていた。逃げずに挑み続けた日々の中で、「できない」と思い込んでいた自分を、少しずつ乗り越えることができた。そして、最後の最後になってようやく、「ラクロスはチームで戦うものだ」という本質に気づけた。

その気づきがあったからこそ、私はラクロスを通して、結果以上に大切なものを得ることができた。
それは、何にも代えがたい仲間たちと、共に過ごしたかけがえのない時間。
苦しい時も、そばで支えてくれたその存在に、何度も救われた。言葉では言い尽くせないほど感謝している。

結果だけを見れば、スタメンとして大きな爪痕を残せたわけではないし、関東トップ5という目標には届かなかったかもしれない。けれど、自分の限界を押し上げようと、本気でもがいた日々。仲間と支え合いながら、心の底から「勝ちたい」と願い、全力で過ごした毎日。それが、私にとっては何よりも誇れる時間だった。

“自分にはできない”と決めつけていた私が、“やってみたい”、“やりきりたい”と思えるようになった。それは、ラクロスという競技と、そして何より、このチームに出会えたから。

学習で、みんなと過ごせて、本当によかった。FINAL4のもっともっと先の国立競技場、みんなと行ってみたかった。


――――――――――――――


これが私の4年間です。すごい量の自分語りですね。でももう少しだけ書かせてください。


私がラクロス部で学んだことは主に二つあります。


一つは、やっぱり「どう変わるかは自分次第」だということ。
これはリーグへの意気込みブログでも触れましたが、自分の行動次第で人は変われるということを、身をもって実感しました。

留学から帰ってきた当初、復帰への不安があまりにも大きく、一瞬「このまま退部しようか」とさえ思ったこともありました。それでも逃げ出したくなる自分に負けたくなくて、覚悟を決めて部活を続ける道を選びました。

その後も苦しいことの連続で、心が折れそうになったことは何度もありました。それでも立ち向かい続けたからこそ、今の私がいます。
始める前から「どうせ無理」と諦めていた自分が、逆境に立ち向かい、最後まで走り切れたこと。それは、私にとって本当に大きな成長でした。


そしてもう一つ。結果だけがすべてではなく、その過程こそが人を成長させるということです。もちろん、スポーツの世界では結果が求められ、周りと比べられ、結果を出さなければ次のチャンスは得られない。それは間違いありません。でも私は、結果にたどり着くまでに、何度も迷って、諦めそうになって、それでも信じて努力を重ねる。その過程にこそ、本当の意味があると思いました。思うような結果が出なかったとしても、そこで得た経験や学びは、きっといつかどこかで生きる。そう信じています。こんなことを私が言っても良いのかと迷いましたが、最後だからこそ、今の正直な気持ちとして伝えさせてください。


――――――――――――――


ここからは感謝を伝えるコーナーです。


同期へ

今まで本当にありがとう。同期と出会えたことは、間違いなく私の人生の宝物です。
私たちは、信頼関係が死ぬほどあったからこそ、言えることも多くて、ラクロスでのいざこざなんかで友情が壊れるわけがないと本気で思っていました。そんな仲間に出会えた私は本当に幸せ者です。
 みんながそれぞれ大きな役割を担っている中で、自分は幹部として大きな仕事をしていたわけではないけれど、その分ラクロスにしっかり向き合うことができました。だからこそ、自分にできる最大限の努力をして、チームに貢献したいと強く思っていました。ここまで来られたのは、間違いなくみんなのおかげです。誰一人欠けてもダメだったと思う。本当にありがとう。渉外も会計も、最初はわからないことだらけで迷惑をかけたけれど、支えてくれてありがとう。みんなとだったから、ここまで頑張れました。心から大好きです。


後輩へ

4年生として、理想の背中を見せられたかはわかりません。でも、そんな私についてきてくれて本当にありがとう。
1on1を褒めてくれたときは、実はすごく嬉しくて、こっそり励みにしていました。
これからきっと大変なこともあると思うけど、みんななら絶対に乗り越えられると信じています。
これほど頼もしい後輩たちに囲まれて、私は本当に幸せでした。
 FINALも、そのもっと先も、みんなならきっと連れて行ってくれると楽しみにしています。プレッシャーかけてごめんね。でも、みんながフィールドで楽しそうにラクロスをしている姿を見るのが、本当に大好きなんです。


娘ちゃんたちへ

2人がどんどん成長していく姿に、私自身すごく刺激をもらっていました。
これからたくさん試練もあると思うけど、2人なら大丈夫。心から応援しています。
 またご飯行こうね!


ももさんへ

私が留学中にももさんは引退してしまって、今度はももさんが留学中に私が引退してしまいましたね。笑
すれ違ってばかりですが、ももさんの存在は私にとって本当に大きなものでした。
 ここまで続けてこられたのは、ももさんがいつも言葉をかけてくださって、親身になって支えてくださったおかげです。帰国したら、またご飯行きたいです!

 

コーチの方々へ

日頃からのご指導、本当にありがとうございました。
技術的にも精神的にも、至らない部分が多かった私ですが、コーチの皆様の言葉に何度も救われました。
学習史上一番下手なAT3枚目だったかもしれませんが、FINAL4という舞台に立たせていただき、ここまで頑張れたことは私にとってかけがえのない経験です。
私が少しでも人として成長できたのは、間違いなくコーチの方々のおかげです。本当にありがとうございました。


――――――――――――――


これで私の引退ブログは終わりです。これを書き終わったことで本当に引退しちゃった気持ちがします。泣きそうです。笑


さて、明日のブログは、もしかしたら“ライバル”だったのかもしれないけれど、実際はそんな関係ではなくて、この人が居たから乗り越えられた。たくさん支え合って、一緒に乗り越えてきた、大切な存在。れいのブログです。


れいのブログ、楽しみにしていてください!


今まで本当にありがとうございました。


Higher


れあ

コメント
名前

内容